身口意を一致させている人の側にいさせてもらえるだけで、大切なことや自分の未熟なことなど、色んなことがまるで光にてらされたように、明らかになる。
( * 身口意は、仏教用語。「身」は行動、「口」は話す言葉、そして「意」とは心。)
今回のこの「見えない新月を想いつどうまつり」は、友人の橋下なおこさんが和歌山にできた庵「滴庵」のオープニングイベントとして企画してくれた演奏会でした。
滴庵は、高野山で20年以上修行された長岡祐親さんが住む庵。
長岡さん家族と橋下さんでこの日のために何日もかけて石の塀から納屋まで、家中すべて掃除してくださったと聞き、驚いたし、感動しましたた。
長岡さんの側にいると、その言葉や行動から心にまっすぐ入ってくるものがたくさんあります。
心の配り方やおもてなし一つ一つを丁寧することなど自分ができてないから余計にハッとしました。
自分の未熟さが光で照らされて明らかになる。そんな感じ。
そういう人の心にまっすぐ入るものは身口意が一致しているからなんだと思う。
そして、このご縁を繋げてくれた橋本 なおこさんは本当に人脈の豊かな人で
とても素敵な出店者さんが並び、来てくださる方々もおもしろい方が多い豪華なイベントでした。
イベントが終わって、一目惚れしてた「いるふ」さんのがま口バックをお誕生日プレゼントにみんなからいただきました。
みんなのお気持ちが本当に嬉しい。がま口バックインドにも持って行きます!
まいどの事ですが、今回も写真全然とってなかった。
最後に、滴庵に飾ってあった祈りの言葉をここへ。
ああ主よ、我をして御身の平和の道具とならしめ給え
我をして憎しみある所に愛をもたらしめ給え
争いある所に赦しを 分裂ある所に一致を
疑いある所に信仰を 誤りある所に真理を
絶望ある所に希望を悲しみある所に喜びを
闇ある所に光をもたらしめ給え
ああ主よ我をして慰めらるるを求めして 慰むることを求めしめ
理解さるることよりも理解することを
愛紗るることよりも愛することを求めしめ給え
そは我等は自ら興うるが故に受け
赦すが故に赦され
己が身を棄てて死するが故に
永遠の生命を得るものなればなり
アッシジの聖フランシスコの祈り